暮らしの重点をどこに置くかが大切です!

本当に人間らしい生き方は?


ものごとを損得で考えることを私はあまり好まない。

しかし、損得で考えたほうがわかりやすいこともある。

たとえば私の身のまわりにもこんなことがあった。

ある、たいへん進歩的と言われている人の家庭で、夫が家事をよく手伝うという話をきいてきた私の知人が、おとなしいご主人を督励して家事を手伝わせ、進歩的という風をわが家にとり入れた。

ところが、ご主人が病気になったのである。

もちろん、家事を手伝わせたからというだけが理由ではないが、少々過労気味で、若いときに病んだ結核が再発したようであった。

友達は、つくづくと私に話していた「やっぱり、パパに元気でいてもらわなければ、わが家の文化生活も根がないことがわかったわ。大事にしなけりゃ」

それと同じようなことだが、パートで働きに出た奥さんが自分の働きで「もの」を買うよろこびを知り、家事はきちんとやって家族に迷惑は絶対かけないということを言っていたが、自分が過労で倒れてしまったという例もある。

また、人手不足のころにちやほやしてくれた企業に、いくらでも自分の働き口はあるという自信を得ると同時に、収入の少ないご主人に嫌気がさして家を飛び出した奥さんもいた。

よしあしは他人がとやかく言うべき筋合いのものではないが、こうした例は、単純な失敗として見すごしていくには、自分をもまわりの人をも傷つける。

時流にのった暮らしのように見えることが、意外な危機にさらされる原因を作っている場合もある。

本当に人間らしい生き方ということを基準に考えてみると、損得勘定をするまでもなく、どちらをとるかの答えは、めいめいの暮らしの場でていねいに考えてみなければならないと思う。

消費は美徳と言われた時期があった。

先進国に追いつけ追いこせと、しゃにむに経済発展をめざしていたころの日本の実状が、そうさせたのであった。

私たちはそれに協力し、家事労働をはぶいてくれるものや、ステータスシンボルになるようなものを家の中に買いこみ、多くの主婦たちは、そうした品々を買うために外に出て働いた。

そしてたしかに便利な生活になった。

なおしもの、つくろいものから解放され、使い捨ての気持ちよさを知った。

と同時に、たべものの味にも、家具の扱いにも、こまやかな情をそそぐことを忘れた。

今は、そういう問題に再考をせまられているときではなかろうか。

たべることだけはぜいたくにしても良いとおもう


家事専従という生活を、まだ一度もしたことのない共働き女房として、私は、よくまあ今日までつづいてきた、と思うことがある。

六十四歳という私の年齢は、昔の「人生五十年」で考えれば、もう、とっくにこの世を去っていい年。

それがなお、働くことも、家事の責任者であることもやめないで、わが家の中では一番若いという立場を守り、毎日をきりきり舞いで暮らしているので、家事の現役からおりたいと思うことは、毎日といっていいくらいある。

元気だと自慢していても、五十腕だか五十肩だかで、手の力がなくなったり、ちょっとしたときにもう無理のきかない限界を知ると、自分のしたい勉強をするために、時間と体力を精いっぱい家事にかけていくことから、そろそろ身をひきたい気持ちが出てきている。

もともと、私は完壁主義を守る性質ではないので、仕事をもちながら家事家政も自分でやっていかなければならない立場になったときから、生活の重点をどこにおいて暮らすかを、かなり割り切ってきた。

衣生活には可能な限り手をかけない、住生活もぜいたくはしない(これはムードをたのしむ飾りものや手入れ掃除に手のかかるものをさける意味で)、ただし食生活だけは、あまり予算にしばられたり間に合わせだけですますのはやめよう、という程度に考えてきた。

それは今もつづいている。

私の仕事は、自分の意志できめられるようにも思われる自由業だが、それは他人の目から見ればということで、実際には時間ぎめの勤務とはちがって、引き受けた仕事が仕上がるまでは、いつもそれが頭の中にあるため、解放されるときがないとも言える。

仕上がったあとも、あそこはもっとこうすればよかった、こうもできたと考えてしまったり、だらしのない話ながら、原稿を書こうと思っても書けないときがあったりで、夢にまでそれがもちこまれてしまうことさえある。

まあ二十四時間労働みたいなものである。

そんな中で、姑と夫との三人暮らしの家事を何もかも一人でするとなると、なかなかっらかった。

今は夫婦だけだが、家事をまかせられる人をたのむことも思うにまかせない時代だから、一層、考えこんでしまう日が多いというわけである。

けれども、投げ出してしまえばそれまでで、私だけではなく働く女みんなの問題でもあることを思うと、より上手に暮らす方法はないかと、また思いなおして、家事にも仕事にもはげむしかない。

私は、自分に対して、「よく働くのだから、たべものだけはぜいたくをしなさい」といつも言いきかせる。

たとえばサラダをおいしくたべるために、野菜はいいものをえらび、ドレッシングソースは必ず自分の好きな味のものを作る。

マヨネーズを作るのに手がいたくてできないと思えば、ハンドミキサーは現在の自分の必需品と考えて買う、というふうに、たべるという目的、それも自分の納得のいくものをたべるための必要条件をととのえることには、手間ひまもお金も使うことにしている。

おかしな話だが、ものがたくさんある。

わが家では野菜は皮だとか根のほうが好きだというようなまた、たとえばうどの皮のきんぴらや、根みつばのひげ根をとったもののきんぴら、笥の姫皮やなすの皮のせん切りの梅肉和えといったものが好物で、そういうものにどれだけ栄養価値があるのかも考えず、節約のためという気もなく、好きだから面倒もいとわず手をかけてたべる。

そういうことを大切にするのも、基本的な栄養のバランスと食費との割りふりを考えさえたりすることと同じように「餌ではない人間の食事」という意味で、私はおろそかにしたくない。

それは食器をえらんで盛りつけに「美」をもとめることとも通じると。

要するに、ほかの家事には少々ルーズな自分を許し、たべることにはていねいさを失うな、と、自分にいいきかせ、いそがしい活の中で自分たちの健康を守ろうとしているだけである。

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