欲望を整理して住みやすい生活を送ろう

家庭の姿勢が暮らしの美を創る


もう、ずっと以前のことだが、ある山深い村の旧家を訪ねて一度お世話になったときの話である。

今のようにたべものが豊かな時代ではなく、ごちそうになった夕食は、自家の畑でとれたおいもや人参、ごぼうなどのお煮染であった。

それを大きな鉢に山盛りに出してくれて、生みたての卵と新鮮な菜っぱのおひたしを、どうぞお好きなだけと、これまた山のようにお膳においてくれた。

おなかをすかせてたどりついたときの、そのごちそうのおいしかったことは今も忘れられない。

それにもまして、できる限りのもてなしをしてくれている気持ちがあふれた出し方に感激してしまった。

翌朝の食事には、たべきれなかった昨夜のおかずをまた出してくれたのであるが、「こんな山の中のことで、何もできなくてお恥ずかしいけど、ゆうべおいしいと言ってくれたので」と言いながら、昨夜の山盛りとはうって変わった盛りつけをして出してくれたのである。

お煮染は小鉢に、おひたしは小皿に、そして卵はみそ汁の中にと、全く新しい感じになっているのである。

残りものの感じはどこにもない。

それはまことに美事な、おいしくたべてもらおうとする心の表現であった。

以来私は、残りものを、そのままの形で食卓に出すことは絶対にしないようになった。

今、急にこれを思い出したのも、家事の美として、そのとき私はそれをうけとったからである。

家事はまことに複雑で、一面ではかぎりのないくり返しのようでありながら、しかし突発的なことが多く、また、毎日の食事づくりなどは、同じ仕事ではあっても、たえず新しくものを創り出していく仕事である。

そしてまた、ていねいな気持ちでゆっくりと仕事をするだけではまかないきれず、たえず間に合わせていかなければならないという事情もある。

しかも、その仕事の範囲は広い。

お手本があって、それにしたがっていれば事足りるわけのものではなく、時に応じ、事に当たって判断し、工夫していかなければさばききれない仕事なのである。

単純労働の積み重ねにも見えながら、しかしものまねで家事に美を創り出すことは不可能だし、まして気まぐれではかえって家じゅうに混乱を招く結果にもなる。

基本的な美をもとめる「センスをみがく」ということ以外にはないのである。

その意味で私は、母親の役割におそろしいほどの重みを感じるのである。

たとえば、いつも家の中が投げやりに取りちらかされている家庭で育った子には、それが当たりまえになるから、整理のセンスは身につかない。

つまり、散らかっていることが気にならないという性質が作られてしまうからであろう。

私は今までに何人かの若い娘さんをあずかったが、料理をする姿の中にも、その人の家庭の様子が目に見えるような気がすることがある。

まして、その人のものときめた机の上や、タンスのまわりなどには、引き出しの中を見なくても、身につけた習慣がそのままに出ているからである。

料理をしながらも、よごれたまな板をさっと洗ってきまった位置に戻し、盛りつけの器を出しておくという、きびきびしたやり方と、調味料の容器など、すぐもとの場所に返せばそれであと片づけの必要もないのに、いきあたりぼったりにかり置きして散らかしてしまい、広くもない台所で、さがしものばかりしているといったやり方、さまざまである。

このちがいは、その人の動作の美しさと、あぶなつかしいぶざまさのちがいも作っている。

暮らしの個性に合った家事の形


こんなことを考えると、血のかよった美しさを、家の中にみなぎらせて暮らすというのは、なんとむずかしいことかとため息も出てくる。

人のことは見えても、自分のこととなると、私などは身のちぢむような暮らし方をしているからである。

家の中だって、いつもきちんと片づけていることはできない。

一人で暮らしているのではない家庭の中は、今片づけたばかりの食卓の上に、誰かがまたコップを出したとか、掃除の中途で玄関のベルがなり、そのまま客と応待しているうちに、掃除機がとんでもない場所に置いてあるのを忘れてしまうこともある。

絵にかいたような美しい住まいは、私にはのぞむべくもない。

そこで、せめてこれだけはと実行しているのは、欲望の整理なのである。

私にとって仕事に必要なものは、たとえよそ目にはきたない紙きれでも捨てるわけにいかないので、そういうものだげは、できるだけ見た目にもきたなくないだけのスペースをとって家の中に置くが、飾りものや上等な衣類のような、私にとってはなくてもすむものに限って、思いきり制限をするのである。

衣類などは、最小必要限のものが入るだけのスペースを家の中にとって、そこに入りきらないものをもつのは、ぜいたくという線をひく。

だから、新しいドレスを一着買えば、今まであったどれかを捨てるしかないように、自分できまりを作ってしまっている。

そうしなければ、せまい家の中に、雑多にものが入りこんで、しまって困ることになると思うからである。

要は、家事もその人の暮らしの個性に合った形があってよいということであり、そこに美しさを創り出すためには、基本的な考え方として、こうしなければがまんのできないという、物の置き方ひとつにも自分の好みをはっきりさせる、つまりはセンスがなければということが言いたかったのである。

そして、そのセンスは、知らずしらずの間に身につけた習慣から育てられるものだという私の思いを、述べたかったのである。

習慣は、自分の意志で身につけることもできる。

親からよい習慣という財産をもらった人にくらべたら、それのないものにはずいぶん努力のいることだが、よいと思うことを実行にうつすという意志によっても、形だけなら美しさは作ることができる。

それが芸術作品とはちがう家事の美というものになるのかもしれない。

あきらめたり、投げ出したりはしたくない。

人が暮らしている限り、一人でいても家事はあるのだから、そこに美しさをもとめるのは人間なら当然のことではないかと思うからである。